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117クーペを振り返る|14年に渡り生産されたいすゞの乗用車について

117クーペを振り返る|14年に渡り生産されたいすゞの乗用車について

いすゞ4人乗りの2ドアクーペ「117クーペ(117Coupe)」。

1968年12月にリリースされてから2度のマイナーチェンジを経て、1981年5月までのおよそ14年間の長きに渡っていすゞのフラグシップを務めたモデルとしても有名です。

1967年から82年まで生産・販売されていた4ドアセダン「いすゞ フローリアン」のクーペとして位置付けられたモデルとして知られており、シャーシやドライブトレーンは共有されているのがポイント。

モデル名に使われている「117」は、フローリアンの開発コードが由来です。

そんな117クーペの歴史は、販売が開始する2年前の1966年にまで遡ります。同年3月に開催されたジュネーブオートサロンにて、117クーペのプロトタイプにあたる「ギア/いすゞ 117スポルト」が発表されました。

そのデザインはイタリアで最も有名なボディーデザインスタジオの一つ「カロッツェリア・ギア」が手がけたことでも知られています。

ギア/いすゞ 117スポルトは、当時同社のチーフデザイナーを務めた「ジョルジェット・ジウジアーロ」がデザインを担当し、その流麗なデザインが放つ美しさが世界的に評価され、大きな話題となりました。

今回は3期に渡って生産されたいすゞの名車117クーペの変遷を辿ります。

1 前期PA90型117クーペ

前期PA90型117クーペ

1968年12月にいすゞのフラグシップモデルとして華々しいデビューを飾った前期型117クーペ。

エンジンはいすゞ初量産のDOHC、1.6LのG161W型エンジンが採用されました。さらに、国産クーペでは初となる1.95LのC190型OHVディーゼルエンジン搭載車が30台程度生産されているのも特徴。

このような高級車へのディーゼルエンジン搭載は世界的に見てもほとんど前例がない取り組みとされています。

市販化に伴って出てきたのが、リリースまでにはプロトタイプとなる117スポルトの洗練されたデザイン故に、当時のいすゞのプレス技術では細いピラーなどを再現し、量産するのが難しいという技術的な課題です。

しかしながら、プロトタイプに近しいものを販売したいといういすゞの意向を尊重し、パネルのトリミングや穴あけをはじめとした生産工程の多くを手作業にすることでオリジナルのデザインを可能な限り再現。変更は室内高などの細かな変更にとどめられました。

多くの作業工程を手作業で生産されたことから、初期型の117クーペは、通称「ハンドメイド」と呼ばれることも。

このような体制によって生産された117クーペは、当時としては非常に高価な一般的な1.8Lクーペの約2倍にあたる172万円で販売されました。

ボディカラーは標準色のアストラルシルバーメタリックとプリムローズイエローの2色。それに加え、別途オーダーした場合はいすゞ車に使われているカラーを選択できました。

1970年11月には、電子制御燃料噴射装置を搭載した「EC」と「1.8L(1,817cc)ツインキャブレターSOHC」が追加。

このような電子制御インジェクションは日本車で初の装備となり、いすゞのフラグシップのみならず日本車をリードするモデルとなりました。

一方、高額な117クーペを普及するための取り組みとして、1971年11月には1.8L SOHCをシングルキャブレターにした廉価版「1800N」が追加されたものの車両価格は136万円と、以前として高価な車に分類される価格帯でした。

手作業が故に初期型の生産台数は月に30〜50台程度に限られ、その希少性もありモデルとしての評価は得られたものの、販売が終了した1972年までの約3年間の総生産台数は2,458台に留まり、商業的には成功とは言えない結果となりました。

2 中期PA90型117クーペ

中期PA90型117クーペ

1973年3月にはゼネラルモーターズ(GM)からの資金・技術の援助により、機械によるプレス成型が可能となったことで、量産化に対応。それにより、車種設計・構成の変更やコストダウンが実施されました。

主な変更点は全モデルが1800ccになったことに加え、ボディーパネルの変更やテールランプ、バンパー、ウインカーの大型化、サイドリフレクターの装着、フロントグリルのデザイン変更、フェンダーミラーが樹脂製の角型に変更など。

さらにタイヤ径も14インチから13インチに変更され、地上高がわずかに低くなりました。

他にも内装のシートは最上位グレードのXEのみモケット張りが採用され、それ以外はビニールレザーシートになるなど、コストダウンが図られたのがポイント。

1974年にはXG以外の全車種にAT設定が追加となりました。

1975年10月には自動車排出ガス規制の強化により、エンジンの大幅な改良が実施され、最上位グレードのXEで最高出力140PS/6400rpmから130ps/6,400rpmへとダウンしました。

3 後期PA90型117クーペ

後期PA90型117クーペ

1977年12月にマイナーチェンジが行われ、これまでで最大のデザインの変更や内装の変更が行われました。

外装ではこれまで賛否両論があった、ヘッドライトが丸型4灯から角型4灯へと変更され、バンパーはラバーで覆われ、コンビネーションランプはバンパー内に埋め込む一体構造に変更されました。

内装ではエアーミックスタイプのカーエアコンが採用され、空調システムが大幅に改善。各部にはプラスチック製部品が多く用いられ、後部座席の灰皿廃止などさらなるコストダウンが図られました。

1978年11月には、自動車排出ガス規制による出力低下を補うべく、エンジン排気量を2.0Lに拡大。以降の昭和53年排出ガス規制適合モデルは、スターシリーズとして展開されました。

1979年12月には、2.2L C223型OHVディーゼルエンジンを搭載したXDがラインナップ。競合車種との差別化が図りました。

1981年5月、後継モデルとなるピアッツァのリリースに合わせて生産が終了。初期型から長期間の販売にも関わらず、総生産台数は8万5,549台にとどまったもののその人気は根強く、現在でもなお旧車好きに愛され続けているモデルです。

惜しまれつつ初代限りで生産終了したいすゞの名車「117クーペ」

今回は1968年12月にリリースされ、2度のマイナーチェンジを経て1981年5月に生産を終了した、いすゞの名車「117クーペ」についてお伝えしました。

117クーペはジョルジェット・ジウジアーロによってデザインされ、大きく姿形を変えないまま14年間の長きに渡りいすゞのフラグシップモデルを務めたモデルです。

1968年のリリースに伴い、プロトタイプにあたる「ギア/いすゞ 117スポルト」の洗練されたデザインを再現するには、当時のいすゞが持つプレス技術では量産が難しいという大きな課題がありました。

その課題を生産工程の多くを手作業にすることで解決。変更は室内高などの細かな変更にとどめられました。

多くの作業工程を手作業で生産されたことから通称「ハンドメイド」と呼ばれ、その名からも分かる通り量産は難しく、初期型の生産台数は月に30〜50台程度。

当時としては非常に高価な172万円の車両価格も相まって、前期型が販売終了した1972年までの約3年間の総生産台数はわずか2,458台のみにとどまります。

1973年3月に登場した中期型からは量産化に対応したものの、1981年5月の生産終了までの総生産台数は8万5,549台と、販売期間が14年間ということを考慮すると決して多くはありません。

一方でモデル自体の評価は高く、その美しいデザインは現代まで多くの旧車ファンから支持され続けています。

「良い車を作る」という当時のいすゞの誠実な姿勢が窺える1台です。

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